2016年04月29日

ビリーバンバン(さよならをするために)

ビリーバンバン


東京都国立市出身の菅原孝、進の兄弟2人によるフォークデュオ

青山学院大学の学生であった進が友人達四人組のバンドとして結成。翌年メンバーチェンジが行われ、孝とパーカッションの中野光雄(後のせんだみつお)の三人組のバンドとなる。

その頃から、アマチュアバンドに物凄い腕前の持ち主がいるとの噂が音楽業界関係者の間に広まり、浜口庫之助の指導を受け、紆余曲折を経てビリーバンバンは孝と進による兄弟デュオとして、「白いブランコ」でキングレコードよりメジャーデビュー、20万枚を超える売上となり、一躍フォークシンガーの代表的存在として人気を得る。


さよならをするために


テレビドラマ『3丁目4番地』の主題歌として、石坂浩二によって作詞、坂田晃一によって作曲され、1972年2月10日発売。

当時、人気の低迷していたビリーバンバンにとっては「白いブランコ」以来の大ヒット曲となった。

しかし、当時のフォーク歌手の風潮として、他人の作詞、作曲したものを歌うのは一種の恥であると受け取る面があり、ビリーバンバンのメンバー・菅原進は、当初、この曲のレコーディングをボイコットしたという逸話がある。

累計では約80万枚を売り上げた。

1972年の第23回NHK紅白歌合戦にこの曲で初出場した。

wikipedia

作詞が石坂浩二さんとは知りませんでした。石坂浩二さんはいろいろな才能があるんですね






さよならをするために [EPレコード 7inch]


posted by aritama at 18:13| Comment(0) | 1972年のヒット曲

2016年03月30日

朱里エイコ(北国行きで)

朱里エイコ


東京都出身の歌手

16歳で単身渡米。ボブ・アルシルバーに師事。アメリカ、ハリウッドで当時有名だったプロデューサー、トーマス・ポールが来日した際、大勢の中からオーディションに合格し、ダウンタウンのエルコース・ホテルで初舞台を踏む。

この年から2年間の契約で、ラスベガスを中心に各地のショービジネスにデビュー。

リノ、レイク・タホ、ハワイ、シアトル、シカゴ、ニューヨークなどの一流ホテル・クラブで活躍した。

まだ無名だった彼女は常にアメリカのランキング上位40曲を歌えなければならなかったという。ラスベガスではサラ・ヴォーンと一緒に舞台を踏んだ。

日本に帰国後レコードを出したり、ワンマンショーを開いたりしていたが、さっぱり人気が出なかったため、2度目の単身渡米。

当時、彼女のショーを観た専門家たちに言わせると、「彼女の持ち味が生かされるほど、当時の日本は進んでいなかった」とのことだった。

以前とは違う自分を試したかったエイコは、グループに所属せず単独のエンターテイナーとして勝負することを決心。

ホテルとの契約、バンドの編成、バンドメンバーに給料を払ったりと、すべてを一人でこなさなければならなかった。ラスベガスのリヴィエラ・ホテルなどでショービズに身を投じる。

エピソード

ラスベガスのステージで歌っていたある日、偶然リンゴ・スターが遊びに来ていた。彼女の歌が終わると同時に彼はアンコールを繰り返し、スタンディングオベーション。「食事でもしないか?」と誘われたが、彼女は断ってしまったと。その時のことについて「あのときはまだ純情で、よくわかっていなかった。もし断っていなかったら、第二のオノ・ヨーコになれたのに」と後年語っている。

虚血性心不全のため自宅にて死去。56歳没。


北国行きで


作詞山上路夫、作編曲鈴木邦彦

1972年の大ヒット曲

第23回NHK紅白歌合戦に初出場する。

wikipedia






リトル・ダイナマイト~ベスト・オブ・朱里エイコ


posted by aritama at 13:19| Comment(0) | 1972年のヒット曲